二宮尊徳

二宮尊徳の伝説のエピソードに隠された真実

本当に二宮尊徳は勉強ができたのか?

二宮尊徳は1787年に誕生して幼名は金次郎でした。

父親を14歳の時、母親を16歳の時に亡くしており、伯父の家で育てられながら貧しい学生時代を送った農民の子供です。

二宮尊徳は朝から夜まで働かなければなりません。

本を読む時間があるのならば働けと言われたので、家の中で勉強することはできません。

そこで薪を背負いながら本を読むことにしました。

その姿は小学校や中学校に建っている銅像で有名です。

二宮尊徳の銅像が小学校に始めて建立されたのは、1932年〜1933年頃です。

この時期は日本が戦争を行っており国家総動員体制へと方針を決めていたため、二宮尊徳の勤勉さを見習わせる目的がありました。

1937年には生誕150年を記念して、多くの銅像を建立しています。

しかし次第に戦況が悪化して軍需物資も不足したので、金属を回収する法令が出されました。

寺の仏具や家庭の鍋、銅像など全ての金属を使うことができなかったので、石像も多く作られています。

日本が戦争に負けた時は二宮尊徳の銅像が戦争を扇動したものとして、打ち壊しを行う地域もありました。

しかし戦後日本を統治していたGHQは二宮尊徳の勤勉さ自体は悪くないと考えていたので、今でも真面目に勉学に励む子供として認識されています。

少年時代の二宮尊徳のストーリーは真実ではない?

幼少時代の二宮尊徳の話は盛られている?

二宮尊徳は銅像になった姿のみを取り上げることが多いですが、子供時代はナスが好きだったと言われています。

ある時ナスの味に違和感があったことから、飢饉が訪れることを予想しました。

悪天候になっても育つ作物を作るように周囲に伝え、実際に飢饉に陥りました。

しかし安定した農作物を収穫できたので、二宮尊徳がいた地域だけ飢饉による餓死者を出すことは無かったと言われています。

二宮尊徳の倫理観を育てたのは、貧しいながらも勉強をして生活した時期が深く関係しています。

農作業の合間には、捨てられた稲の苗やを空き地に植えて収穫までします。

この行為を通して「積小為大」という経済理念が培われています。

これは小さなものをコツコツと積み重ねない限り大きな物は得られないという考え方です。

二宮尊徳は質素な暮らしでも大きなことを成し遂げられると考えており、毎年収益を増やすことで失った田畑を買い戻し、成人してすぐ自分の家を再興することに成功しました。

この経験は後の人生にも生かされています。

近親者であった家政を再建し、若党として仕えていた小田原藩家老服部家の財政を立て直すなどの功績を残しています。

優れた実践力は周囲から高く評価され、藩主の大久保忠真の目に留まって財政難に苦しんでいる旗本の野須桜町領の財政再建を任されました。

これを達成するのに10年間もかかりましたが、成功したことで多くの地域から復興や飢餓の救済を依頼されました。

大久保忠真は二宮尊徳の手法を、論語にある「徳を以て徳に報いる」ものだと言いました。

そこで二宮尊徳は自ら「報徳」という名前を付けました。

徳とはそれぞれの長所のことで、全ての物が潜在的に持っているものです。

実はあまり知られていない二宮尊徳の秘密とは

学校では教えてくれない二宮尊徳の話

荒地には荒地の徳があり、借金には借金の徳があると語っていたように、恵まれた環境ではなかった少年時代での経験に基づいています。

災厄も捉え方を変えることで良い面が見つかるように、それぞれの徳を見つけて活用することで生産性は高まり、効率良く創造的な生活を送ることができます。

報徳の基本的な考え方は勤労と分度、推譲の3つです。

勤労は生活をするための基本で、自分で努力することです。

頭を動かして知恵を働かせることで、より労働を効率的に行って、社会に貢献できると自覚することが大切と教えています。

二宮尊徳は勤労に関して天道と人道という言葉を残しています。

天道とは春夏秋冬や雨天などの自然現象を指します。

また植物は土があることで発芽して、水を与えられて成長します。

植物を動物が食べることで生命が循環します。

この生命の連鎖も天道に含まれます。

一方、人道とは自然の循環の中で、人間の意思を継続して生活することです。

人間は米や野菜など必要なものを選択し、食べ物を得るために水を与え雑草を除去し収穫します。

これは人間が自分の利益のために行っていることです。

分度とは収入の中で一定の余剰分を出しながら支出を決めることです。

経営を成り立たせる基本ですが、余剰分を明日や遠い未来が発展するように有効活用できる資源と見なしています。

推譲は余剰の一部を経済力に応じて持ち寄ることです。

互いに助け合って弱者や生活に困窮している人に渡されます。

これは報徳を実践するための資金であり、これによって国家を再建したり地方を盛り上げたりすることができます。

二宮尊徳が日本に与えた影響は本当に大きかったのか?

二宮尊徳は世界的には全く無名?

二宮尊徳は70歳で死亡するまで報徳の考え方を利用して、600もの村を救っています。

江戸時代には多くの思想家が活動していましたが、そのほとんどが思想のまま終わって実践することはできませんでした。

二宮尊徳の思想は現代に通ずるところがあります。

自分の思想と現実社会を上手く結合されることに成功しましたが、その中には一部の地域でしか通用しないものもあります。

一方でどこでも適用される普遍的なものと仕法として本に記しています。

「仕法雛形」を21人の弟子たちと編纂するのに2年3ヶ月かかり、全部で84冊を後世に伝えることができるようになりました。

この本によって二宮尊徳の死後も弟子たちが育ち、斎藤高行や福往正兄といった優秀な人材を輩出しています。

現代では中国で熱心に研究されていますが、これは利益だけを追求する中国社会に対して危機感を持つ人が多いためです。

北京大学日本文化研究所がその中心となっており、日本と連携して2003年には国際二宮尊徳思想学会を設立しました。

2005年に日本と最も親近感を持つとされる大連で、大連民族学院に中国東北二宮尊徳研究センターも設立されています。

また日本社会にも影響を与えています。

例えば企業の社会的責任であるCSRという言葉が定着しています。

企業の理念が道徳なき経済は犯罪であるという考え方を用いて、CSRが浸透する前から企業の掲げる目標を大きく発表しました。

技術革新だけでなう健全に事業を進めることの精神は二宮尊徳から受け継いだものでもあります。